みなさんこんばんは、たまゆりです!
今日の記事は、書いているうちにとても内面的な話になってしまいました。熱い上に長くなりますが(笑)よかったら読んでやってください!
さて、昨日京都で行ったカミーノ同窓会の後引き続き京都に滞在していて、今日は1日時間があったので、市内中心部から少し車を走らせて「大原三千院」へ行ってきました!
ここは、まだサンティアゴ巡礼を歩く前の、今年の冬に訪れて以来とても気に入り「近くに行ったらもう一度訪れたいなあ」と思っていた場所でした。
三千院が舞台の名曲「女ひとり」
京都〜大原三千院♪恋に疲れた女がひとり〜♪
という有名な歌があるので、女一人で訪れるとあまりにもそれっぽすぎて、なんだか勝手にひとりで少し恥ずかしい!
恋に疲れたわけじゃないの!恋はしてるけど!疲れてるわけじゃないんです!傷心じゃないんです!だいじょうぶ!と誰にもそんなこと聞かれてないのに、なぜか心の中で弁明(笑)
デューク・エイセスという方が歌った曲ですが、石川さゆりさんや一青窈さんもこの曲をカバーされています。
シンプルな歌詞とメロディーなのだけど、なんだかとても胸に残る風情のある曲で、大好きなんです。思い出しては、つい口ずさんじゃう。
三千院・極楽浄土の庭
私が以前訪れた冬と、今回訪れた夏とではまた雰囲気が違っていて、とても安らいだよい時間をすごすことができました。
青紅葉が陽の光に透けて揺れる様が、とても美しい。
なんだかここへ来ると、不思議と涙が出てくるのです。
この三千院は、国宝である「阿弥陀三尊像」を安置した「往生極楽院」を中心として、光と緑と花に満ちた美しい庭園の中に不動堂、観音堂が配されています。
本堂である「往生極楽院」の名前からもわかるように、庭園も含めたこの三千院全体が、満ち足りた極楽浄土の世界をあらわしているとも言われます。
やわらかな極彩色の苔のじゅうたんに、風に揺れる青紅葉の葉が影を落とし、神々しい金色の模様を描き出します。
外はあんなに暑かったのに、この庭にいるとまるで別世界。ここだけ、何かに守られているみたいにとても優しく涼しい風が吹いているんです。ふしぎでした。
観音堂の隅に座り、優しい風に抱かれながら、この美しい極楽浄土院、そして苔と木々が作り出す模様、苔の中に穏やかに座す石仏のまぶしい光景を見ていると、どうしてか胸にこみ上げてくるものがあり、座りながら涙が出てきました。
ノートルダム寺院・天国のステンドグラス
それは、私が以前サンティアゴ巡礼の直前に、電車のチケットの日付を間違えて買うというひょんなことから訪れた、ノートルダム大聖堂で感じたものと同じ。
ざわつく広い聖堂の中、椅子に腰掛け、太陽の光に透けて再奥に輝くステンドグラスの光を見ていた時、熱い涙が止まらなくなりました。
うまく言葉にできないけれど、ああ、きっとこれが天国なんだな、これが理想の世界なんだろうな、と思った。
本当は、あの光の向こうに見えるような世界を誰もが望んでいるはずだ。
誰のことも傷つけなくて良くて、誰からも何かを奪ってやろうとか思わなくても良い、ただ目の前の人にただ笑いかけて、親切にして、目の前の人が幸せであるようにと、願いながら生きていける世界。
でも今わたしがいる現実の世界はそうではなくて、あのステンドグラスの向こうの光に、わたしは、わたしたちはあまり遠い。
だけど、それでも生きている。生まれてきて、他の命を食べることで、今こうして生かされている。
ということは、きっとそのことにも何か意味があるのだって、その時に思いました。
あの美しい光には程遠いこんな世界でも生きていく意味を、世界に対してあまりに無力な私がそれでも生かされているその意味を、私の生きる中で果たすべき役割はなんなのかを、探すための旅にしよう。
カミーノを歩く前に訪れたノートルダム寺院で、私は強くそう思いました。あの陽の涙は、きっとその決意の涙、ということもあったかもしれない。
自然と浮かんだ決意のことば
そして、その巡礼から帰ってきて、今日訪れた京都・三千院。
もう一度その天国のような場所に立った時、もしかすると、私はその答えを見つけつつあるのかもしれない。いや、見つけたのだ。という気がしました。
言いつくせないほど穏やかで慈悲深い表情の、阿弥陀如来像の優しいまなざしの下、座って目を閉じた私の胸の中に自然と浮かんできたのは
「私は私にできる仕事を、この生をつかって懸命にします」という意味の言葉だった。
そうして流れてきた今日の涙は、嬉し涙と、そして、がんばろうってもういちど決意の涙だったと思う。
聖フランチェスコの祈り
私がかつてイタリア・フィレンツェに留学していたころにアッシジという街を訪れて出会い、今でもとても好きな祈りの言葉があります。
聖フランチェスコの祈り
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びを。ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。
初めてイタリアで目にした時から思っていたのですが、少し、宮沢賢治の詩「雨ニモ負ケズ」にも似ていますね。
慰められるよりも慰める、
理解されるよりも理解する、
愛されるよりも愛する。
自ら与えることによって受け取り、
許すことによって赦される。
まだまだ私では難しくて、つい忘れてしまうこともたくさんあるし、ほんっとうに至らないところばっかりなのだけれど…
それでも、この言葉の中に書かれていることを忘れないで生きていきたい、と思います。
私の生きる意味
こんな世界に、社会に生きながら、自分にできることはなんだろう。
以前の私は、そんな大きな社会全体の流れを変えられるはずがない、だから結局なにをしても意味がない、何もできない私が存在している意味がわからなくて、いっそ死んだほうがましだって思っていました。
だけど、今は違う。
世界や社会全体を変えることはできないとしても、私は今の私が等身大でできることを、小さなことでも、目の前のことでも、どんどんやっていこう、って思います。
出会ってくれた人、目の前にいる人、例えばこのブログを見つけてくれた人、その人たちに少しでも、なにか明るい光のようなものを渡せたらいい。たとえほんのちょっとでも。
ひとりでは難しくても、いろんな人の力が合わさって、自分にできるそれぞれの等身大のことをしていったら、きっとものすごくゆっくりだとしても、目に見えないほどだとしても、確実に何か、変わる。
だって現に、そう考えて行動した人たちが発信してくださったことで、今の私がこんなにも変わったんだもん。
だから今度はわたしが、その更に次へ、バトンをつないでいけたらいいな、それがきっと私の生きる意味であり、役割なのだなという気がします。
そう、今日私が往生極楽院の如来さまの前で誓ったのは、そういうことだったと思う。
これからも、たくさん失敗しながら、前に進もうって思います。
私がこれからどんな場所にたどり着くのか、一緒に見ていてくださるならこれほど嬉しいことはありません。
さて!!!また長くなっちゃったーー!!!
特にこういう内面的な話題の時は、いろんな経験やいろんな言葉やいろんな本に影響されている分、いろんなところへ話が飛んでしまって、なかなかまとまりません(笑)
たぶん、言いたいことのスケールがでっかすぎて、まだぼんやりしていて、今の私の書く技術ではとても書ききれないのだと思う。
もっと修行を積んで、いつかもっと読んでくださる方に伝わりやすく書ける時が来ればいいなと思います。
長い上にまとまりきらない文章をお読みくださったみなさま、本当にありがとうございました。
それでは、おやすみなさい!たまゆりでした。
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