前回の記事の続きです。
馬籠峠から先は、妻籠宿に向けて山道を歩き、一気に高度を下げていく。
石畳の斜面の上に落ち葉が積もり、さらにその上に雪が積もり、溶けかけてまた凍ったそれはつるつると滑るのでとても危ない。
今年は例年より雪が早く、寒さも厳しいので溶けずに残ってしまったのだそう。
私はといえば完全に町歩き用のスニーカーで来てしまっていて、やはりちゃんと出発までに雪を見越して対策をしなかったことを反省。
今回の1泊2日の行程は圧倒的にアスファルトの舗装道歩きが多いので、重たい登山靴は適さないと判断してスニーカーを選んだけれど、ここまで雪があるなら、チェーンスパイクか軽アイゼンを用意すべきでした。登山用の重い12本爪アイゼンをわざわざ持ち出すのもいやだなぁと思い、まあいいかと、怠ってしまった。
しかし、この時期に日本の街道歩きをしようとするなら必須の道具ですね。今度買いに行こう。
幸いトレッキングポールは持っていたので、ものすごくゆっくりとした速度で、踏み跡のない凍っていない雪の上を慎重に選びながら下っていった。
太陽の短い季節。
山はどんどんと薄暗くなっていき、いつ着くの?もう着くよね?と少しだけ焦り始めた頃、目的地の大妻籠の宿に到着しました。
今夜の宿は、妻籠宿の2kmほど手前の集落「大妻籠」にある旅籠「つたむらや」さん。
川魚の生簀での養殖から、合鴨を飼育しての米作り、茶畑で自家栽培の緑茶、畑での野菜づくり、コンテストで優秀賞を取るほどの自家製のどぶろくなど、とにかくもう、なんでも自分で作っちゃう、ほぼ完全に自給自足の超パワフルなおじいちゃん・おばあちゃんとその息子さんが営む、日本の田舎の庄屋さんにタイムスリップして来たかのような、素朴であたたかみのあるお宿です。
普段はこの年の瀬の冬には営業をされていないそうなのですが、問い合わせてみたところ、たまたま仕事で利用しているテレビ局の方がいらっしゃるとのことで、特別に泊めていただきました。
またも、たったひとりでの利用にもかかわらず、お風呂も食事も、気を配っていただいてとても心があたたかになる滞在でした。
木の国・木曽路らしい木桶にやわらかな山の水を満たしたお風呂は、あたたかくてとても気持ちよくて。
夕食にも朝食にも、畑で取れたての野菜に、笑顔がとてもかわいらしい、おばあちゃん手製のお漬物をいただいて。
クールで真面目な仕事人のおじいちゃんは、こまめに薪ストーブの火に気を配ってくださって。
ほんとうにあったかかったです。
経営や広報を担う息子さんは、ひとりロンリー日本酒を傾ける私の話につきあってくださいました。
もともと海外からトレッキングで利用するお客様が中心だった中山道の古いお宿は、やはりコロナウイルスの影響で、以前に比べお客様が大きく減ってしまったとのことでした。
海外からの旅行客を受け入れる見通しが立たない今、これからのことについて、思いをめぐらせているとのことでした。
「海外の人は歩くのが好きだけど、日本の人はなかなかやらないみたいなんですよね」
そんな風におっしゃる息子さん。
「日本の人たちも、もっと国内を歩く旅に興味を持ってもらえたらうれしい」と、話してくださいました。
正直なところ私も、日本の街道を歩いて旅しようだなんて、こうして海外旅行へ自由に行けなくなるまでは考えてもみなかった。
海外に歩きに行けないから「仕方なく」はじめた、中山道の歩き旅だった。
でも、こうして少しずつ歩いて行くうち、この旅には「海外旅行の代わり」以上の、大切な意味があるように思えてならなくて。
たしかに、広い大地や壮大な風景や、珍しい食べ物や世界各国の人たちとの出会いがある海外の歩き旅と比べたら、住み慣れた日本を歩くこの旅は、私にとってちょっと地味だ。
目新しい刺激や、心が沸き立つようなはじめての体験はここにはない。
でも、その刺激的な眩しい体験と比べても、けっして劣らないすばらしさが、大事な意味が、この旅にはあると、今、思っている。
それは多分、一言で言うなら「みずからを知る」っていうことなんだと思う。
この旅で出会うのは、見知らぬ異文化ではなく、自分自身がルーツとして知らぬ間に魂や細胞に宿している、記憶、記録、歴史だ。
私はもちろんその時代には生きていないけれど、今こうしてここに息をしている私は、まちがいなく、その時代の人々と地続きだ。
習慣や、ことば、食べ物、この土地で同じように生を紡いで来た人たちの息遣いが自分の身に宿っていて、それをたどるように旅をすることで、私は自分自身をより深い場所から、自分自身の内側に立って見つめているような気がしている。
海外を旅し、異文化の中に身を置いて、さまざまな文化や常識の人たちや世界観に触れることは、自分を俯瞰するためのひとつの大事な方法だと思う。
それは私にとって、自分の世界をワイドに広げるという、自分に新しい風を吹き込んで、成長していくために欠かせない手段だ。
でもきっとこれは、この旅は、それとはベクトルが違う。
横に世界を広げるよりも、自分の世界を深く掘り下げるものなんだと思う。
木々は、天に向かって広げて伸ばした幹や枝と、おなじだけの長さの根を、地面に深く張っているという。
それと同じなのかもしれない。自分という人間に根っこの深さがなければ、上に伸びることも、横に広がっていくこともできない。
私は、ひたすら旅に明け暮れて生きた昨年までの日々の中で、そんな自分の限界を知ったのかもしれない。
根っこを育てなければ、自分の世界を広げて行くこともできないのだと、学んだのかもしれない。
だから私は今、中山道を歩いているのかな。そんな風に思う。
なんか、ぜんぜんうまく表現できてるかんじがしないんだけど。
中山道を旅するのは、スペインの道を歩くのとは、方法としてはちょっと似ているようで、だけどその意味がぜんぜん違う。
自分のホームを知って、ルーツを知って、時に退屈でもじっと向き合って、見つめて、自分を作ったこの土や水や空気や人々を、知る。
それはつまり、自分自身を知ることだと思う。
日本の良さを再発掘しようとか、身近ないいものに目を向けようとか、すごくざっくりと表面的に言ったらそういうことなんだけど、そういうことなんだけど、、、なんかそれだけじゃなくて、
それはたぶん「外に目を向けられないから仕方なくすること」なんじゃなくて
それと同じくらい いやそれ以上にもっと大事な
かけがえのないことなんだよ、多分、っていうのを、言いたい。
だから、たくさんの人に、歩いて欲しい。そう思った。
なんかね、まだ4日とか5日とかしか歩いてないくせになんか、なにえらそうに言うてんねんて感じだよね(笑)
それに、旅のことだけじゃなくて、暮らしとか、いろんな面でみんな、きっと気がついていることなのだと思うし。わざわざ私が言わなくたって。
それでもこのえらそうな言葉が、もっと自信を持って言えるように「自分はこの旅をして本当によかった」と胸を張ってみなさんに伝えられるように、私は今後どんなに退屈でもいやんなちゃってもこの旅をし続けて、そしてやり遂げたいなと思います。
歩く意味。
歩くための技術とか、体力とか、方法論はもちろんものすごく大切だけれど、私にとって、なによりも大事な原動力となるのはやっぱり「自分が歩く理由」そのものだ。
だからこそ、このブログでは、歩くための役に立つ情報をもちろんシェアしたいけど、それ以上に、歩く理由そのものについて、表現していたいなって思います。
そして、その人なりの歩く原動力を、読んでくれる人が見出すヒントになるのなら、なによりもそれが一番うれしい。
です!!!はい!!!!!笑
以上、長くなっちゃったけど中山道歩き4日目でした。
5日目に続く!
中山道の旅、楽しく読ませてもらってますよー
ぼくの靴の話を、相変わらずネタに使っていただいて光栄です(笑)
風情のある街道の写真が素敵です。
晩秋から冬の景色は寂しい感じもするけど、澄んだ空気の感じが伝わってきていいですね。
ありがとうございます!
ドMの靴の話は、いい話すぎて、今後一生使わせてもらうような気がします(笑)
冬の中山道、木曽路なんて絶対寒いやん…とびくびくしていましたが、
実際歩いてみると、寒さ以上にそのきりっとした美しさに惹かれてしまいます。
春も春で待ち遠しいけれど、しばらくは冬ならではの景色を楽しみたいと思います(*^o^*)