前回の記事「中山道歩き6日目」のつづきです。
2021年4月7日
中山道歩き7日目(歩くのはお休み)
福島宿を散策
さて、昨日宿泊した「木曽路の宿 いわや」さんで朝から美味しいごはんをいただきました。
本当は、今日も20kmほどがんばって歩いて、難所の鳥居峠を越えて、奈良井宿を目指そうかと思っていました。
が…
じつに3ヶ月ぶりという体のなまりぐあいがたたってか、へとへとに疲れてしまっていたので、それは断念。
せっかくの見所が多い福島宿・そして奈良井宿を、駆け足で過ぎ去ってしまうのも、よく考えたらもったいないよなぁ…と思い直して、今日は、この福島宿をゆっくり見て回ることに。
そうすれば、次回は風情たっぷりの奈良井宿に泊まることもできるしね(笑)
そんなわけで、デイ・オフな今回の旅行記ですが、福島宿のようすをご紹介しつつ、私の旅に対する心境の変化なども、書いていけたらいいなと思います。
世にも恐ろしい「福島関所」。
さて、福島宿といえば、なによりまず最初に紹介しなくてはいけない点が。
ここは、江戸時代の当時、権力を握っていた江戸幕府にとって、とても重要な「関所」が設けられた宿場町だったのです。
東海道の箱根関所・新居関所、そして中山道のもうひとつの碓氷関所に並んで、
「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まるための「四大関所」でした。
「入り鉄砲と出女」というのは、そのまま、鉄砲と女性のことで、
江戸時代の当初、幕府に対する反乱を企てる者を牽制するのに大きく役立ちました。
当時、地方の大名たちには、1年おきに自分の領地と江戸を往復する「参勤交代」の義務が課されていました。
そして、大名たちは、一種の「人質」として、妻や子供を江戸に残して自分の領地に帰るのです。
江戸に残してきた家族を思えば、地元にいる間に幕府への反乱を企てにくいということだったそうです。すごい制度だ…。
万一謀反が発覚すれば、江戸に残した家族たちはたちどころに死刑に処されたというほど。
そしてこれらの街道沿いの関所は、その人質である女性や子供が、江戸からの脱走を図ることを防ぐためのものでした。
女性が旅する難しさ。
女性がこの関所を通ろうとした場合、必ず公的な手形が必要で、その手形を得ることも容易ではなかったといいます。
また、手形があったとしても取調べは厳重さを極め、旅の間も数時間、ここで足止めをくらったそうです。
公的な手形が一般的な女性に発行されるのは、他の村への嫁入りの時くらいで、そのあとは関所をまたいでの里帰りすらも数年間できなかったといいます。
現代では想像もつかないことですが、当時の女性は、もしも「外の世界を見てみたい、知ってみたい、旅をしてみたい」という想いを持ったとしても、それを叶えることは、ほんとうにほんとうに難しいことであったんだ…。
きっと、街道沿いに住んでいた女性は、日々訪れては去っていくさまざまな旅人の姿を見、話を聞き。あるいは旅を記した旅行記を読み…。
そうして、まだ見ぬ、そして見ることが一生叶わないかもしれない世界に、想いをはせたんだろうな。
そう考えると、今こうして、自分が自由気ままに旅をしていることが、すごく貴重なことのような気がしてきて。
前の時代と比べれば、自由である今の自分の生を、無駄にしないで、たくさんのことを見て、聞いて、知って、自分なりに表現して残していけたらいいなと思うのでした。
霊山・御嶽山巡拝の拠点、福島宿。
そんな感慨にふけりながら、福島関所をあとにして。
順番としてはちょっと逆なのですが、福島宿の宿場町を訪れました。
こんなに重要な関所があったにもかかわらず、ここ福島宿の規模は意外と小さかったのです。
というのも、関所の側に長く居座るのが恐ろしかったため、ここ福島は、旅人にとって長居せずにさっさと通り過ぎたい場所だったのだとか。
江戸と京を行き来する旅人だけではなく、ここ木曽福島の地は、古くから「御嶽参り」の重要な拠点としても栄えていました。
いまでも、この木曽福島の街から御嶽山の頂上を目指す「御嶽古道」が残っていて、観光案内所でも詳しい地図をいただくことができます。
こちらもいつか歩いてみたいものです。
そんな福島の宿場町、昨日訪れた須原宿と同じく、山からの雪解け水が水路に絶えず流れていて、水音がとても心地よかったです。
向こうには白い雪をかぶった山も見えて、本当にここは周りをすっかり山に囲まれた土地なんだなぁと感じます。
御嶽山の噴火で思い出した「感謝」。
朝ごはんを供してくれた、地元に住むという物腰柔らかく素敵なスタッフのお姉さんが、食べる間お話し相手になってくださったのですが、そのお話がとても印象的でした。
数年前に御嶽山が噴火し、多くの方が犠牲になりました。
その当時は、噴火口から離れたここ木曽福島でも、火山灰が積もったそうです。
また、近くの山手の小学校が、ご遺体の安置所となったそうです。
自分もかつて、小学校の遠足で登ったことがあり、御嶽山は身近な存在だったというお姉さん。
噴火があったときには、とても、いろんなことを考えさせられた、とおっしゃっていました。
普段から山に囲まれたこの土地で、街と比べればよっぽど自然と近いところで、自然の恵みもそれとは逆の面も、よく知りながら暮らしている人。
そんな人でも、あのとき、普段は決して意識することのなかった、自然の大きな脅威を感じたと。
たくさんの人が亡くなったり、怪我をされて、とても痛ましいことだった。
けれど、それはもしかすると、いつの間にか感謝を忘れて、あたりまえのように自然からの恵みを享受して生きるようになってしまった自分達へ、感謝の気持ちを思い出させようとしてくれているんじゃないか……そんな気がしてならなかったそうです。
朝の光が差し込む食堂で、さまざまに歌う鳥のさえずりを聴きながら、私も何か、深く考えさせられるような気持ちになりました。
歩く旅=感謝を思い出す儀式。
ふだんの慌ただしい人間社会での暮らしの中では、こうして、鳥の声に耳を傾けることも少ない。
首元を抜けていく風の気持ちよさに、木の葉越しの日差しのやわらかさに、思わず目を細めることもあまりない。
世の中はとても便利で、夜は暗くてもスイッチひとつで電気がつくし、ごはんを食べるにも、眠るにも、お風呂に入るにも、さして苦労をすることなく、快適さが手に入る。
でも、その快適さ、便利さにいつの間にか慣れすぎて、ほんとうはありがたくて、今日こうして呼吸をして、生きているだけのことがとても貴重でかけがえないことなんだ…っていう、いのちの喜びみたいなものを、忘れていってしまう気がする。
なんだかそれはとても、恐ろしくて、もったいないことだという気がする。
便利になればなるほど、もっともっとって、際限なく、渇望して求めてしまう。生きているだけで尊くて幸せを感じられるようにできているはずが、そこからどんどん遠ざかっていく。
私にとって「歩く旅」とは、そんなふうに簡単に忘れてしまう、世界・自然・生きていることそのものに対しての感謝の気持ちを、思い出すための儀式なのかもしれないな、なんて思いました。
そりゃぁ、江戸時代の旅人たちに比べたら、歩く旅っていったって便利さは計り知れないんだけれども。
それでも、当時の人がしたように、自分の足で、ちゃんとくたびれながらも歩こうとしてみる、というところに、何か意味を見出している自分がいます。
旅に対する、気持ちの変化。
そしてもうひとつ、書きたかった、旅についての自分自身の気持ちの変化。
私は今まで、いくつかのスペインや日本国内の古い街道を歩いてきました。
でもね、その道を歩いていながらも、そこに根付いている、人の営みを、ぜんぜん知ろうとしてこなかったんだなって思ったんです。
そりゃ、解説の看板が置いてあればサーッと目を通すんだけど「へぇー」っていうくらいで、そこにある背景には、まったく目を向けようとしてこなかった。
自分の旅が「今」楽しいこと。
自分自身が、今いるこの場所を楽しんで、味わって。
自分自身が、なにを感じるか、何を考えているのか……「わたし」だけが、ずっとずっと、一番大事だった。
でも、このところ、自分の中で、なにかが変わってきたように思います。
ああ、、、ぜんぜんなんだか、うまくいえる感じがしないんだけど。
書いてみるね。
エゴは薄れて、受け継ぐパイプになる。
私が変化しつつあること、それはひとことでいえば
「自分の内面が中心の旅から、外側の世界が中心の旅へ」ってことかな、と思います。
これまでの「自分が旅から何かを得たい」「旅を通じて変化したい」っていう動機から、「この旅は私に何をもたらそうとしているんだろう?」「ここを歩くことで何を知って、何を伝えていくべきなんだろう?」みたいなことを、考えるようになりました。
それが、今の、歴史をもっと知りたい、勉強して歩きたいとか、「温故知新」みたいなことに、つながっているのだと思う。
自分の内面からなにかを生み出す、というよりも、だれかほかのひとが残してきたものを、あるいは自然からの声みたいなものを、受け取って、それを受け継いでいく。
そのとき自分のエゴは薄れて、ただ、土地や人から受け取ったものをそのまままた誰かへ、どこかへと受け渡すパイプになっている。
「自分の価値を証明しなきゃ」という焦り。
これまでは「自分がすごくならなきゃ、自分に価値があると証明しなきゃ」みたいな気持ちが、ずっと心の中にあった。
そんなエゴがあったから、ずっとどこか息苦しかったのかもしれない。
自分に自信がないから、ありのままの自分では不安だから、もっと価値のある人間にならなくちゃ。
もっと完璧にできるようにならなくちゃ。じゃなきゃ、人の役には立てない。
長いこと、そんなふうに思っていた。
でも、それは、はたからみていたらきっと、苦しい。
周りの人の役に立つどころか、逆に、いっぱい心配かけちゃってたよなって、今ならわかる(笑)
でも今は、それよりもただ「目の前にいる人に、自分が持っているものであげられるものはなんだろう」「周りにいる人が、知りたいことってなんだろう。」
そんなふうに、少しずつ、思えるようになってきている自分がいます。
一人旅だけど、ぜんぜんひとりじゃないから。
私は、今の私にできることをしたらいい。
そして、なによりも、わたしはひとりぼっちじゃない。
一人旅なんだけど、ひとりでしてるんじゃなくて、その土地で長く長く培われてきたもの、人々の営み、たくさんの人たちがそこで考えてきたこと、感じてきたことがある。
その長いつながりのはじっこに私がいて、私はその糸をたぐりよせて、ただつなげていけばいい。
そこにあるのは「私の価値を証明しないと」という焦りとは全然違っていて。
むしろ
「すでにここにある素晴らしいものを、どうやったら、その良さをそのまんま、伝えられるんだろう?」
「この旅そのもの、土地、人々、その魅力を、もっともっといっぱい伝えられるようになりたい!」
っていう、前向きな意思。
私という道具を使って、受け取るものをただ書く。
それは、きっと、旅のことだけではなくて、仕事のことにしてみても、人生全体のことでもそう。
こうやって文章を書くときもね、前だったらもっと、なにか、自分の中からおもしろいものをひねりださなきゃみたいな、ことをずっと考えてたの(笑)
なんかちょっと、笑えるでしょ(笑)
でも、ひとりの人間の経験や変化なんて限界があるし、そんなに毎日がネタ満載の暮らしをしているわけでもないし!笑
だから、いつも書くべきおもしろいこと、価値のあるなにかが自分の中にはない、ないって、焦ってた気がする。
でも今は、それも少し変わった。
私自身じゃなくて、私が見た面白いもの、美しいもの、出会った人の魅力、考えさせられたこと、そのきっかけ、、、
そういうものをただ、私という道具を使って、ただ書けばいいんだってわかった気がしたの。
書くべきこと、伝えるべきこと、表現するべきことは、自分の中心からやってくるんじゃなくて、外の世界からやってくる。
わたしはパイプとして、媒介として、それを伝える。
必要だと思っている人に、届ける。届けたい。届いたらいいな。
そんな気持ちで、今回の旅をしました。
今後も旅、続けていきます!
いきなり動画とか作っちゃったので「ん!?どうした」って思われた方もいるかもしれません(笑)
でも、こういう新しい価値観、新しい方法を通じて、自分自身が成長していくのはもちろんだけど、
なにか、出会ってくれた人、見てくれた人に、ちょっとでも新しい閃きとか、「次、こういうことやってみよう!」みたいな、きっかけになってくれたらとても嬉しいなと思います。
いつもながら、こうやって自分の内面の変化について書こうとすると、いまいちちゃんと伝わるように書けているのかな?と不安にもなりますが。
ともかく、今後とも、中山道の旅を楽しく続けて、そこで見てきたもの、知ったこと、感じたことについて、お伝えして行けたらいいなと思います。
そんなこんなで、少し節目のような変化のあった、今回の旅でした。
次回は、来月かな。
今回中断してしまった福島宿から、まずは奈良井宿を目指し、そしてその先も歩いていきたいと思います。
山に囲まれて美しかった木曽路も、そろそろ終わりが見え始めてきて、ちょっと寂しいな。
それでは以上、毎度のことながら長くなりましたが、ここまでお読みくださりありがとうございました。
たまゆりでした!